「不調者も療術家も孤独」の詳細記事: 村松幸彦ブログ:堂々、富士の如く
生まれ赤子の こころ に帰ろう。
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不調者も療術家も孤独
椎間板ヘルニアって知っていますか?
骨と骨の間にある椎間板という軟骨が飛び出す症状で、
腰に出たり頚椎に出たりする方がいます。
ヘルニアと言う言葉は、“飛び出す”と言う意味のドイツ語です。
飛び出した軟骨が神経に触れたり、圧迫をするので、
「魔女の一突き」などと言われるくらい激痛を伴います。
たいていは、1週間くらい安静にしていれば、痛みは緩和していきますが、
その後、なんとなく、重い感じや違和感と不安感を持つ人が多いのです。
手術をしても、上記にプラスして後遺症がで出来たりする方が
多いというのが現実の話です。
私は、27歳の時にこれに発症し、1週間入院した経験があります、
コルセットも作りましたが、手術だけは皆さんの情報からやめることにし、
「上手に付き合う道 (医者が私に諭した言葉です)」を選択しました。
スイミングの指導員をしていた私は、勤務中に発症し、
プールから上がる際、大変な思いをしました。
勤務中での出来事であったにも関わらず、
労災保険の適用にはならないケースが多いのもこの症状です。
というもの、発症の原因が仕事との因果関係の断定が難しいからだ。
ということでした。
(今は、どのように判断しているのかは、判りません。
事例のある方は、メールなどでコメントお寄せください)
またなるのではないかという不安は、絶えず頭から消えることはなく、
仕事への影響から、今後の人生への悲観を感じる毎日でした。
その後、完治を目指して、病院をかえ、
鍼灸、マッサージ、整体、カイロ、気功など
遠方も含め「あそこはいいよ!」と紹介されるたびに出かけ行きました。
私の在住しておりますところから、遠く離れた県外にも出かけました。
私の性格は、少し理屈っぽいところがある為、その都度
その場で痛みが軽くなっても、
「なんで・・、どうして・・」といつも聞いていました。
先生によって答えが違うので、それに戸惑いを感じながらも
症状に対して前向きに原因を探す自分がやがて出来上がっていました。
そのようにして、腰の違和感との付き合いも、やがて6年、7年と過ぎる内に
生活の中で、どのように過ごしていいか、または、このようにしていると
悪くなるな・・。というようなことがつかみ掛けて来て、
いつしか、同じ悩みを抱えている方に話せる自分になっていました。
施術家になるきっかけは、このようにして芽生えてきまして、
平成6年整体学校へ、その翌年自宅にて開業をしたのでした。
自宅にて開業!
というと聞こえはいいかもしれませんが、
そこは、約12畳くらいのキッチン、食卓テーブルのワンルームの居間で、
ふだんは家族の憩いの場であり食事の場です。
施術スペースは8畳くらいのところに、
テレビを人体パネルで隠し、施術台一つ。
応接セットを待合に使うという有様でした。
看板を表につけても、周りは田んぼ。
お宅は何処?と聞かれて説明しても半分の方は迷って来ました・・。
そんな、判り難い自宅でした。
当時は、ツボの道と言われる“経絡”というものに沿って、
押したりほぐしたりといった療法をやっていました。
同じような訴えでも、良くなったという方もあれば、
変化が無かった方、中には揉み返しでかえって悪くなった、
と正直におっしゃる方もおりまして、
どのようにご説明してよいものやらと絶えず悩んでいました。
経営的には、お蔭様で開業4ヶ月目で月100人以上、
その後、多いときには150人くらいにはなっておりましたが、
不調の方がお見えになればなるほど、教えてもらった通りには
いかないことを実感し、腕を上げることだけでなく、
こころのケァーもこの仕事には欠かせない要素だということが
解るようになりました。
そして、半年もやらない内に私には、あるものが見えてきました。
時間でいくらというシステムの収入面での限界と、体力の限界、
さらには相談したくても親身になってくれる人や組織がろくにないことです。
また性格面では、絶えず技と自己を研鑽する事が好きという方、
痛みの訴えや悩みを絶えずめんどくさがらず聞けたり、応対できる方…
そのような人でないと、長くこの業界で生きれないと
ここ数年実感しています。
私は、療術家の不安や孤独をずっと体験してきました。
入門されたきっかけは、人それぞれでしょうが、
一人、地方で仕事をしていると、壁にぶつかることもあるでしょう。
私は、日々、これまでご指導させて頂いた方々のことや、
後進の先生方にとって、プロとしての悩みが何であるかなどを気にしています。
意見交換や、新たな学びが必要な方もおられることと思います。
一人一人の皆さんのことを出来るだけ思い出しながら
日々、ブログを書せていただいております。
独立しました今だからこそ、
今までは仕組み上、出来なかったところにおいても
私の経験や知識がお役に立てればと願っています。
この道を、私と共に歩んでゆきませんか!
またいつかお会い出来る日を楽しみにしております。
今日も生かしていただきありがとうございます。
骨と骨の間にある椎間板という軟骨が飛び出す症状で、
腰に出たり頚椎に出たりする方がいます。
ヘルニアと言う言葉は、“飛び出す”と言う意味のドイツ語です。
飛び出した軟骨が神経に触れたり、圧迫をするので、
「魔女の一突き」などと言われるくらい激痛を伴います。
たいていは、1週間くらい安静にしていれば、痛みは緩和していきますが、
その後、なんとなく、重い感じや違和感と不安感を持つ人が多いのです。
手術をしても、上記にプラスして後遺症がで出来たりする方が
多いというのが現実の話です。
私は、27歳の時にこれに発症し、1週間入院した経験があります、
コルセットも作りましたが、手術だけは皆さんの情報からやめることにし、
「上手に付き合う道 (医者が私に諭した言葉です)」を選択しました。
スイミングの指導員をしていた私は、勤務中に発症し、
プールから上がる際、大変な思いをしました。
勤務中での出来事であったにも関わらず、
労災保険の適用にはならないケースが多いのもこの症状です。
というもの、発症の原因が仕事との因果関係の断定が難しいからだ。
ということでした。
(今は、どのように判断しているのかは、判りません。
事例のある方は、メールなどでコメントお寄せください)
またなるのではないかという不安は、絶えず頭から消えることはなく、
仕事への影響から、今後の人生への悲観を感じる毎日でした。
その後、完治を目指して、病院をかえ、
鍼灸、マッサージ、整体、カイロ、気功など
遠方も含め「あそこはいいよ!」と紹介されるたびに出かけ行きました。
私の在住しておりますところから、遠く離れた県外にも出かけました。
私の性格は、少し理屈っぽいところがある為、その都度
その場で痛みが軽くなっても、
「なんで・・、どうして・・」といつも聞いていました。
先生によって答えが違うので、それに戸惑いを感じながらも
症状に対して前向きに原因を探す自分がやがて出来上がっていました。
そのようにして、腰の違和感との付き合いも、やがて6年、7年と過ぎる内に
生活の中で、どのように過ごしていいか、または、このようにしていると
悪くなるな・・。というようなことがつかみ掛けて来て、
いつしか、同じ悩みを抱えている方に話せる自分になっていました。
施術家になるきっかけは、このようにして芽生えてきまして、
平成6年整体学校へ、その翌年自宅にて開業をしたのでした。
自宅にて開業!
というと聞こえはいいかもしれませんが、
そこは、約12畳くらいのキッチン、食卓テーブルのワンルームの居間で、
ふだんは家族の憩いの場であり食事の場です。
施術スペースは8畳くらいのところに、
テレビを人体パネルで隠し、施術台一つ。
応接セットを待合に使うという有様でした。
看板を表につけても、周りは田んぼ。
お宅は何処?と聞かれて説明しても半分の方は迷って来ました・・。
そんな、判り難い自宅でした。
当時は、ツボの道と言われる“経絡”というものに沿って、
押したりほぐしたりといった療法をやっていました。
同じような訴えでも、良くなったという方もあれば、
変化が無かった方、中には揉み返しでかえって悪くなった、
と正直におっしゃる方もおりまして、
どのようにご説明してよいものやらと絶えず悩んでいました。
経営的には、お蔭様で開業4ヶ月目で月100人以上、
その後、多いときには150人くらいにはなっておりましたが、
不調の方がお見えになればなるほど、教えてもらった通りには
いかないことを実感し、腕を上げることだけでなく、
こころのケァーもこの仕事には欠かせない要素だということが
解るようになりました。
そして、半年もやらない内に私には、あるものが見えてきました。
時間でいくらというシステムの収入面での限界と、体力の限界、
さらには相談したくても親身になってくれる人や組織がろくにないことです。
また性格面では、絶えず技と自己を研鑽する事が好きという方、
痛みの訴えや悩みを絶えずめんどくさがらず聞けたり、応対できる方…
そのような人でないと、長くこの業界で生きれないと
ここ数年実感しています。
私は、療術家の不安や孤独をずっと体験してきました。
入門されたきっかけは、人それぞれでしょうが、
一人、地方で仕事をしていると、壁にぶつかることもあるでしょう。
私は、日々、これまでご指導させて頂いた方々のことや、
後進の先生方にとって、プロとしての悩みが何であるかなどを気にしています。
意見交換や、新たな学びが必要な方もおられることと思います。
一人一人の皆さんのことを出来るだけ思い出しながら
日々、ブログを書せていただいております。
独立しました今だからこそ、
今までは仕組み上、出来なかったところにおいても
私の経験や知識がお役に立てればと願っています。
この道を、私と共に歩んでゆきませんか!
またいつかお会い出来る日を楽しみにしております。
今日も生かしていただきありがとうございます。
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自己紹介
村松幸彦
HP:
性別:
男性
職業:
整体師・指導者
趣味:
水泳。それを発端に「人を育てる事」が生き甲斐
ビジョン:
整体で日本を変える!
普遍性に基づく この技術は、限られた者が、私(ワタクシ)するものではない! 一人でも多くの方々に、この素晴らしい技術と出会って頂けるよう、その機会を作りたい!
私は若い時に水泳選手をしておりました。その後、職業コーチとして人を育くみ、可能性を伸ばす事に従事してきました。しかし、激務により椎間板ヘルニアを患ってしまい、激痛に七転八倒。現役選手からは退いていましたが、現場でスポーツに関わる者としては致命傷でした。
実はその数年前、事故による不運で、父は実家を手放なしておりました。私は狭いアパート暮らしをしながら、暗澹とした気持を撥ね退けるように頑張り続け、やっとの思いで自分の人生を軌道に乗せつつあったのですが…。そんな矢先の凋落。「若くして、こんな病気になってしまうなんて…」と我が運命を悔やみながら、それまでの夢を断念せざるを得ませんでした。一年間程、一般外科に通院しましたが、病状は回復しませんでした。当時、私なりに、様々な責任がかかる一方で、一寸先は真っ暗闇という気持ちでした。
いよいよ手術をしなければいけないと迷っていたのですが、周囲の助言を聞いて療法を切り替えました。各種療術、鍼灸など東洋医学、カイロプラクティックなど「いい先生がいる」と聞いては、たとえ遠方や県外であっても、良い治療院を求めて転々としました。
治療を進めながら、私は「人生、こんなことで落ち込んでいてはダメだ。又、様々な自分の不運を他人のせいにしてはいけない」と、考えを転換。更に「身体と心は、ひとつのつながったものなのだ」という感覚を、体験的に持ちはじめました。最終的には、それまでは持ち得なかった 人生における様々な別の視点を与えてくれた“気づき”の為の機会として、自分の「病」にさえも感謝する事が出来る様になってゆきました。他者を恨むではなく、自分の気持に責任を持って絶対積極の道を選ばなければ、と考え、ささやかながらマイホームを建てるという自らへの挑戦を致しました。「人生、明るい方を見よう」と。
そんな末、徐々に体調を回復。
それに前後して、施術療法における 精神的な師 とお呼びするに相応しい方とも出会いがありました。今は亡き その恩師は、大変な力を持っていた方ですが「私の療法は自分一代限りのもの」と言われ、直接的な後継者を作られませんでした。しかし、ご縁あって、師より薫陶を受けることが出来たことは、何ものにも代え難い経験となりました。
そのようにして整体術を中心に様々な施術療法で体調を回復し、心持ちの大切さに気づいた喜びと感動が志に繋がり、後日、自らも整体術(当初は揉み系)を学び、自分の治療院を開院するにいたりました。
お陰さまで、私の治療院は最初からうまくゆき、四ヶ月目で、一ヶ月に百人以上の来院者が来られ、その後も安定して来院者は増える一方でした。
しかし途中、当時の施術法は限界にぶつかり、自分の身体も、施術結果も限界に…。プロとして思い悩んでいた頃、自然形体療法と出会い転向。師の下で研鑽を深め、独立後それを元に技を進化させ、多くの問題を解決してゆきました。
私の治療院は順調で、何ら問題はなかったのですが、胸中の志からすると、自分の治療院の成功だけでは満足出来なかったのです。
常々、私の得た療法を広めたい、多くの方々と、この技と心を分かち合いたいと思っておりました。またプロとして活躍していただく為には、治療院運営方法の伝授も大切な要素だと考えました。
心 思いて学ばざれば即ち暗し、学びて思わざるは即ち危うし。
かつて共に学んだ後輩をフォローする形で【日本回復整体学院】を設立。副学院長として、学院の運営以上に、主として施術の実技指導、及び治療院運営法指導の役割を担いました。
平成21年3月、当初の志を全うする意志を持って学院より独立。
累加の教え子達からは「従来なかなか食うに困る業界と言われていたが、この技術によって、人を癒し、成果を上げ、人並み以上の治療院をまかなう事が出来るようになった」と言われる事が多いのは幸いです。
これまでの時代、それで良かったのかもしれません。しかし、私は、身体不調や人生の軋轢がもたらす他者の「痛み」に関わる者として、教え子の皆さんには、技術だけではなく、人の「心」を鑑みることを忘れずにいて欲しいと望みます。治療の本質、そして生まれて来たことの意味の本質は、そこに有るのですから。「心」を忘れた治療は、換骨奪胎、仏作って魂入れず。
その一方で、太陽は誰のもとにも輝く。
このご縁が広がり、朗らかな各々の人生を生きて頂きたい。そしてその際、この太陽のような暖かさに気づかない方、不調者さま達には、その事を全身全霊をもって伝えて頂きたいと思います。治療というのはそういうものなのです。それがこの技を授かった者の使命だと思っています。
これまでの機会では、技術においても、心においても、まだまだ皆さんに、十全には伝えきっておりません。出来るだけ多くの方々に、この技と心を伝えたい。それを行ってゆく事が私の使命だと考えております。
整体で日本を変える!
思えば、かの
万世の為に太平を開かんと欲す、という言葉をもって、日本は、信じられぬ程に大きく変わり、その想いに違わぬ発展をしてまいりました。時代は、たえず変わるものです。人が求めるもの、時代の意識、物事の価値さえもが移り変わって往きます。苦難をしのいだあかつきに、ひとつの大業が成されると、その時点からでしか見えない視点が生じます。そして、大きな志とは、時代を超え、尚も貫かれるにたるものなのです。
「万世」とは、単に “現在、広く世にあまねく” のみならず、未来の世代はもちろんの事、過去までをもさし含む言葉ではないかと、私は察します。こころざし次第で、不思議な程に、過去の物事の意味でさえも変わってゆく。今という激動の時代、ご縁のある方々の安寧かつ希望あふれる未来を望むにあたり、初心を忘れず、意新たに。
各々に与えられた「時」「機会」「出会い」の意味を問い、それに感謝。
あいまみえぬ時代をも含めて、技や心の師、友、後進達と共に、この想いを分ち合いたい。
整体で日本を変える!
普遍性に基づく この技術は、限られた者が、私(ワタクシ)するものではない! 一人でも多くの方々に、この素晴らしい技術と出会って頂けるよう、その機会を作りたい!
私は若い時に水泳選手をしておりました。その後、職業コーチとして人を育くみ、可能性を伸ばす事に従事してきました。しかし、激務により椎間板ヘルニアを患ってしまい、激痛に七転八倒。現役選手からは退いていましたが、現場でスポーツに関わる者としては致命傷でした。
実はその数年前、事故による不運で、父は実家を手放なしておりました。私は狭いアパート暮らしをしながら、暗澹とした気持を撥ね退けるように頑張り続け、やっとの思いで自分の人生を軌道に乗せつつあったのですが…。そんな矢先の凋落。「若くして、こんな病気になってしまうなんて…」と我が運命を悔やみながら、それまでの夢を断念せざるを得ませんでした。一年間程、一般外科に通院しましたが、病状は回復しませんでした。当時、私なりに、様々な責任がかかる一方で、一寸先は真っ暗闇という気持ちでした。
いよいよ手術をしなければいけないと迷っていたのですが、周囲の助言を聞いて療法を切り替えました。各種療術、鍼灸など東洋医学、カイロプラクティックなど「いい先生がいる」と聞いては、たとえ遠方や県外であっても、良い治療院を求めて転々としました。
治療を進めながら、私は「人生、こんなことで落ち込んでいてはダメだ。又、様々な自分の不運を他人のせいにしてはいけない」と、考えを転換。更に「身体と心は、ひとつのつながったものなのだ」という感覚を、体験的に持ちはじめました。最終的には、それまでは持ち得なかった 人生における様々な別の視点を与えてくれた“気づき”の為の機会として、自分の「病」にさえも感謝する事が出来る様になってゆきました。他者を恨むではなく、自分の気持に責任を持って絶対積極の道を選ばなければ、と考え、ささやかながらマイホームを建てるという自らへの挑戦を致しました。「人生、明るい方を見よう」と。
そんな末、徐々に体調を回復。
それに前後して、施術療法における 精神的な師 とお呼びするに相応しい方とも出会いがありました。今は亡き その恩師は、大変な力を持っていた方ですが「私の療法は自分一代限りのもの」と言われ、直接的な後継者を作られませんでした。しかし、ご縁あって、師より薫陶を受けることが出来たことは、何ものにも代え難い経験となりました。
そのようにして整体術を中心に様々な施術療法で体調を回復し、心持ちの大切さに気づいた喜びと感動が志に繋がり、後日、自らも整体術(当初は揉み系)を学び、自分の治療院を開院するにいたりました。
お陰さまで、私の治療院は最初からうまくゆき、四ヶ月目で、一ヶ月に百人以上の来院者が来られ、その後も安定して来院者は増える一方でした。
しかし途中、当時の施術法は限界にぶつかり、自分の身体も、施術結果も限界に…。プロとして思い悩んでいた頃、自然形体療法と出会い転向。師の下で研鑽を深め、独立後それを元に技を進化させ、多くの問題を解決してゆきました。
私の治療院は順調で、何ら問題はなかったのですが、胸中の志からすると、自分の治療院の成功だけでは満足出来なかったのです。
常々、私の得た療法を広めたい、多くの方々と、この技と心を分かち合いたいと思っておりました。またプロとして活躍していただく為には、治療院運営方法の伝授も大切な要素だと考えました。
心 思いて学ばざれば即ち暗し、学びて思わざるは即ち危うし。
かつて共に学んだ後輩をフォローする形で【日本回復整体学院】を設立。副学院長として、学院の運営以上に、主として施術の実技指導、及び治療院運営法指導の役割を担いました。
平成21年3月、当初の志を全うする意志を持って学院より独立。
累加の教え子達からは「従来なかなか食うに困る業界と言われていたが、この技術によって、人を癒し、成果を上げ、人並み以上の治療院をまかなう事が出来るようになった」と言われる事が多いのは幸いです。
これまでの時代、それで良かったのかもしれません。しかし、私は、身体不調や人生の軋轢がもたらす他者の「痛み」に関わる者として、教え子の皆さんには、技術だけではなく、人の「心」を鑑みることを忘れずにいて欲しいと望みます。治療の本質、そして生まれて来たことの意味の本質は、そこに有るのですから。「心」を忘れた治療は、換骨奪胎、仏作って魂入れず。
その一方で、太陽は誰のもとにも輝く。
このご縁が広がり、朗らかな各々の人生を生きて頂きたい。そしてその際、この太陽のような暖かさに気づかない方、不調者さま達には、その事を全身全霊をもって伝えて頂きたいと思います。治療というのはそういうものなのです。それがこの技を授かった者の使命だと思っています。
これまでの機会では、技術においても、心においても、まだまだ皆さんに、十全には伝えきっておりません。出来るだけ多くの方々に、この技と心を伝えたい。それを行ってゆく事が私の使命だと考えております。
整体で日本を変える!
思えば、かの
万世の為に太平を開かんと欲す、という言葉をもって、日本は、信じられぬ程に大きく変わり、その想いに違わぬ発展をしてまいりました。時代は、たえず変わるものです。人が求めるもの、時代の意識、物事の価値さえもが移り変わって往きます。苦難をしのいだあかつきに、ひとつの大業が成されると、その時点からでしか見えない視点が生じます。そして、大きな志とは、時代を超え、尚も貫かれるにたるものなのです。
「万世」とは、単に “現在、広く世にあまねく” のみならず、未来の世代はもちろんの事、過去までをもさし含む言葉ではないかと、私は察します。こころざし次第で、不思議な程に、過去の物事の意味でさえも変わってゆく。今という激動の時代、ご縁のある方々の安寧かつ希望あふれる未来を望むにあたり、初心を忘れず、意新たに。
各々に与えられた「時」「機会」「出会い」の意味を問い、それに感謝。
あいまみえぬ時代をも含めて、技や心の師、友、後進達と共に、この想いを分ち合いたい。
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