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「この時期になると思う事」の詳細記事: 村松幸彦ブログ:堂々、富士の如く

村松幸彦ブログ:堂々、富士の如く

生まれ赤子の こころ に帰ろう。

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この時期になると思う事

ここ数日、私は大阪で忙しくしています。

一方、普段、ときより、
忙しくしていない時、
ナゼか、有難さで
ただただ涙が出てしまいます。
(困ったもんです)

ここ一週間、
過去において
広島や長崎に原爆が落ちた日がありました。
皆さんは、これをどのように思いますか?

オバマ大統領は、
「原爆投下は戦争を終わらせる為に必要な措置だった」
と言っています。
これは戦後の米大統領の典型的な意見でもあります。

一方、先の大戦中、連合軍最高司令官であったアイゼンハワー(後に米大統領)は、
戦時下においては「敗戦が決定的な日本にいまさら原爆を落とす意味はない」と
原爆投下に反対していたことが、
米国で使われている歴史の教科書には明示されています。

当時の日本は、連合軍を相手に立ち向かう物資も底をついていました。
国民はいざしらず、日米ともに軍の指揮官上層部達ならば
“日本の降伏は時間の問題だ”と知っていた、と考えられています。

それなのにナゼ、原爆が使われたのか…?!
(様々に言われていますが、ここではその話は割愛致します)

戦後、64年経ち、原爆投下を正当化する人々が、
こうした情報に耳を傾けるのは難しくなっています。
肯定派の人々が理由としてあげるのは、
「結果的に多くの日本人の命を救った」という論法です。 
(米国が言うのは理解できなくもないですが、
  驚くべきことに…当時の事を国内的にみても、本土決戦論も実在しました…。
  軍幹部の一部は、かなり真剣になっていました…)


広島では、たったの1個の原爆で
20万人以上が亡くなっています。
その後も、大変多くの人々が後遺症で苦しんでいます。
 
それでも疑問に感じるのは、
広島か長崎かどちらのパイロットかは忘れましたが、
被爆者がそのパイロットに会った際、
「あなたはまた同じ命令を受けたら、原爆を投下するのか?」
の問いに
「命令は命令であるから迷わず投下するだろう」
と答えたそうです。

被爆者は一瞬絶句しました。

そこにパイロットは言葉を続けました。
「だからこそ、戦争は絶対に起こしてはならない」

私はこの言葉から、
いくら命令、また勝者の視点といえども、
罪の無い人々の命を奪うことに後ろめたさを
感じていたのではないか…、と感じました。

役割によって、いろいろな視点が存在するものです。
世の中には、様々な視点があるのだなぁ、と感じると同時に、
見方の差が大きい事に驚きます。

親日家でもあった物理学者アインシュタインは、
大正11年
「世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。
   それはアジアの最高峰日本に立ち戻らなければならない。
   我々は神に感謝する、
   我々に日本という尊い国を作っておいてくれたことを…」
と言ったと伝えられています。

不思議な感覚を覚える言葉です。
アインシュタインがこの言葉を言った時の深意は判りません。
この言葉を言ったのが大正11年だったという時期からして、
シンプルに、彼がこの国を訪問した時、
前述のように強く心を揺さぶられる程の感激があったのではないか、
と、捉えるのが良いのだと思います。

アインシュタインは、往時、この国を訪れ、
言葉には語り尽くせない、
潜在的な力を感じたのではないかと思いました。

しかし、一方で、捉えようによっては、
この謎めいた言葉には、いくつかの意味があったのではないか…、
とさえ想像してしまいます。

核の理論を世にもたらしたアインシュタインは、
自分の発見した理論が、とんでもない事実を
作り出してしまうことに気づき、政治的な力によって、
自分では止めようがなかった事に落胆したようです。

戦後、彼は、平和主義者のリーダー格として活動を
していたということも伝えられています。

世界でも類のない素晴らしい歴史を継承している日本…。
アインシュタインは、そのことも知っていたのだと思います。

そして、彼がそこまで誉めてくれた、この国に
原爆が落とされてしまった…。
そういった事実の中、彼は葛藤したのではないかと思います。

一方で、世界史に先んじて、核の被害者となった日本…。
アインシュタインの誉めた美しさと同時に、
最大の悲劇を受けて耐えた国でもあったのです。
悲劇の実例として、その姿を世界にさらした。

私は、人とは何か、人間の使命とは何か…と、
葛藤するような思いで、この事実を受け止めます。

人それぞれ、使命は違います。
善かれと思って進めた事も、
どういう結果になってしまうか
判らない事もある。

また、広い意味における、
人間の『技術』や『能力』というものが
どのように活用されるのか…。
そして、それがどのような事実を作ってゆくのか…。
全てが、当人の手で、コントロール出来るわけではない。

時間と、事実の陰陽の波の中、
歴史というものは思わぬ事実をもたらします。

だからこそ、短期的には有効だと感じても、
システム、テクニック、限定的な思想だけを
見てはならないのではないかと、感じる事があります。
心の深くにある「思い」が大切だと思うのです。

様々な事があっても、結局、「思い」の力が、
現実を作ってゆくのだと思います。

感謝の念こそが、どうしようもない負の力を
プラスに変える事が出来るのです。
そのことを心の深くに刻んでおきたいと思います。

今日も生かして頂き、ありがとうございます。
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自己紹介

村松幸彦
HP:
性別:
男性
職業:
整体師・指導者
趣味:
水泳。それを発端に「人を育てる事」が生き甲斐

  
ビジョン:


整体で日本を変える!

普遍性に基づく この技術は、限られた者が、私(ワタクシ)するものではない! 一人でも多くの方々に、この素晴らしい技術と出会って頂けるよう、その機会を作りたい!


私は若い時に水泳選手をしておりました。その後、職業コーチとして人を育くみ、可能性を伸ばす事に従事してきました。しかし、激務により椎間板ヘルニアを患ってしまい、激痛に七転八倒。現役選手からは退いていましたが、現場でスポーツに関わる者としては致命傷でした。

実はその数年前、事故による不運で、父は実家を手放なしておりました。私は狭いアパート暮らしをしながら、暗澹とした気持を撥ね退けるように頑張り続け、やっとの思いで自分の人生を軌道に乗せつつあったのですが…。そんな矢先の凋落。「若くして、こんな病気になってしまうなんて…」と我が運命を悔やみながら、それまでの夢を断念せざるを得ませんでした。一年間程、一般外科に通院しましたが、病状は回復しませんでした。当時、私なりに、様々な責任がかかる一方で、一寸先は真っ暗闇という気持ちでした。

いよいよ手術をしなければいけないと迷っていたのですが、周囲の助言を聞いて療法を切り替えました。各種療術、鍼灸など東洋医学、カイロプラクティックなど「いい先生がいる」と聞いては、たとえ遠方や県外であっても、良い治療院を求めて転々としました。

治療を進めながら、私は「人生、こんなことで落ち込んでいてはダメだ。又、様々な自分の不運を他人のせいにしてはいけない」と、考えを転換。更に「身体と心は、ひとつのつながったものなのだ」という感覚を、体験的に持ちはじめました。最終的には、それまでは持ち得なかった 人生における様々な別の視点を与えてくれた“気づき”の為の機会として、自分の「病」にさえも感謝する事が出来る様になってゆきました。他者を恨むではなく、自分の気持に責任を持って絶対積極の道を選ばなければ、と考え、ささやかながらマイホームを建てるという自らへの挑戦を致しました。「人生、明るい方を見よう」と。

そんな末、徐々に体調を回復。

それに前後して、施術療法における 精神的な師 とお呼びするに相応しい方とも出会いがありました。今は亡き その恩師は、大変な力を持っていた方ですが「私の療法は自分一代限りのもの」と言われ、直接的な後継者を作られませんでした。しかし、ご縁あって、師より薫陶を受けることが出来たことは、何ものにも代え難い経験となりました。

そのようにして整体術を中心に様々な施術療法で体調を回復し、心持ちの大切さに気づいた喜びと感動が志に繋がり、後日、自らも整体術(当初は揉み系)を学び、自分の治療院を開院するにいたりました。

お陰さまで、私の治療院は最初からうまくゆき、四ヶ月目で、一ヶ月に百人以上の来院者が来られ、その後も安定して来院者は増える一方でした。

しかし途中、当時の施術法は限界にぶつかり、自分の身体も、施術結果も限界に…。プロとして思い悩んでいた頃、自然形体療法と出会い転向。師の下で研鑽を深め、独立後それを元に技を進化させ、多くの問題を解決してゆきました。

私の治療院は順調で、何ら問題はなかったのですが、胸中の志からすると、自分の治療院の成功だけでは満足出来なかったのです。

常々、私の得た療法を広めたい、多くの方々と、この技と心を分かち合いたいと思っておりました。またプロとして活躍していただく為には、治療院運営方法の伝授も大切な要素だと考えました。

心 思いて学ばざれば即ち暗し、学びて思わざるは即ち危うし。

かつて共に学んだ後輩をフォローする形で【日本回復整体学院】を設立。副学院長として、学院の運営以上に、主として施術の実技指導、及び治療院運営法指導の役割を担いました。

平成21年3月、当初の志を全うする意志を持って学院より独立。

累加の教え子達からは「従来なかなか食うに困る業界と言われていたが、この技術によって、人を癒し、成果を上げ、人並み以上の治療院をまかなう事が出来るようになった」と言われる事が多いのは幸いです。

これまでの時代、それで良かったのかもしれません。しかし、私は、身体不調や人生の軋轢がもたらす他者の「痛み」に関わる者として、教え子の皆さんには、技術だけではなく、人の「心」を鑑みることを忘れずにいて欲しいと望みます。治療の本質、そして生まれて来たことの意味の本質は、そこに有るのですから。「心」を忘れた治療は、換骨奪胎、仏作って魂入れず。

その一方で、太陽は誰のもとにも輝く。

このご縁が広がり、朗らかな各々の人生を生きて頂きたい。そしてその際、この太陽のような暖かさに気づかない方、不調者さま達には、その事を全身全霊をもって伝えて頂きたいと思います。治療というのはそういうものなのです。それがこの技を授かった者の使命だと思っています。

これまでの機会では、技術においても、心においても、まだまだ皆さんに、十全には伝えきっておりません。出来るだけ多くの方々に、この技と心を伝えたい。それを行ってゆく事が私の使命だと考えております。

整体で日本を変える!



思えば、かの
万世の為に太平を開かんと欲す、という言葉をもって、日本は、信じられぬ程に大きく変わり、その想いに違わぬ発展をしてまいりました。時代は、たえず変わるものです。人が求めるもの、時代の意識、物事の価値さえもが移り変わって往きます。苦難をしのいだあかつきに、ひとつの大業が成されると、その時点からでしか見えない視点が生じます。そして、大きな志とは、時代を超え、尚も貫かれるにたるものなのです。

「万世」とは、単に “現在、広く世にあまねく” のみならず、未来の世代はもちろんの事、過去までをもさし含む言葉ではないかと、私は察します。こころざし次第で、不思議な程に、過去の物事の意味でさえも変わってゆく。今という激動の時代、ご縁のある方々の安寧かつ希望あふれる未来を望むにあたり、初心を忘れず、意新たに。

各々に与えられた「時」「機会」「出会い」の意味を問い、それに感謝。

あいまみえぬ時代をも含めて、技や心の師、友、後進達と共に、この想いを分ち合いたい。




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