「京都にて2」の詳細記事: 村松幸彦ブログ:堂々、富士の如く
生まれ赤子の こころ に帰ろう。
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京都にて2
京都では「京町屋カフェ我がまんま」のiさまの
お宅に泊めていただきました。
自宅を開放してペンション業もやっておられるのです。
昭和初期のお医者様のお宅で、当時の様式の
和洋折衷の素晴らしい味わいのお家でした。
暖かいおもてなしに感謝いたします。
(頭上は、吉田松陰、西郷隆盛などにも
影響を与えた藤田東湖先生の書)
こちらのご主人は、
体験会にご参加頂いた奥様のお話を詳しく聞くまでもなく
奥様の様子を見られると、まずは復調を喜ばれているようすでした。
とっておきの防腐剤無添加の素晴らしいワインなどを
楽しくいただきながら、和気あいあい、色々なお話をさせて頂きました。
真剣な話も色々と致しました。夜が更けてから、
さらにお互いの心が打ち解け、
難病に苦しまれる縁者の方に関するご相談などもありました。
話が前後しますが…、
今回の車座の会は、ご参加の先生方のところに通われる
不調者の方も、何人か参加されておられました。
辛い症状の方を前に、話し合いの場を先に持つのは
適切ではないと考え、施術体験会から始めさせて頂きました。
一番の辛い症状の方は、
もう2年も首の痛みで苦しんでおられて、
上を向くこともできず、横を向く時には
肩も一緒に動いてしまうという症状でした。
お聞きすると、頚椎椎間板ヘルニアが完治しない内に
事故あわれて、それからの症状だそうです。
泣き面に蜂とはこのことです。
お休みになる時も、さぞや難儀だろうと推察致しましたし、
「何故、自分だけが、このようになってしまったのか」と
運命を悲観しているようでもありました。
2年間も、そのような症状で過ごされておられたら、
いくら「明るく過ごすように」と言っても、
たいへん難しいものです。
私も腰椎椎間板ヘルニアで約10年悩んでいましたから、
症状は違えども、お気持ちは痛いほど判りました。
「イタイ、イタイ」と言っていて、症状に心を向けていても
自分の気持ちは晴れて来ないし、
そのうちに性格までも、嫌な自分になりそうで…
怖かった時期もあったと思います。
しかし、考えてみますと、世の中には、
もっともっと辛い状態で、人生と立ち向かっている人も、
ごまんとおられるのです。
様々な方に施術をさせて頂いていると、
痛みだけでなく、他人に言えない悩みや苦しみを、
私のような者にお話してくださいます。
いろいろな人生を観て思いますのは、
本当の苦しみと言うのは身体の苦しみより、
精神的な苦しみの方が、
はるかに辛いのではないかということです。
今回の京都車座の会では、
『思い方を変えるのが一番』
ということをお伝えしたいと思いまして、
最後に、ある例え話をさせていもらいました。
人生とは、思い方を変えて生きる事が、
何より大事だと思います。
翌日は京都の街をまわりました。
祇園も御所も良かったし、
下鴨神社の参道の緑も何ともいい気分でした。
偶然にお祭りをやっていました。
歴史の痕跡(こんせき)は、美しいく、優しいものばかりではなく、
新撰組の刃や、蛤御門の変の弾丸の跡などなど…、
京都を歩くと、他の街にも増して、人間の心の様々な陰陽が
幾重にも刻まれているところである事を直接感じました。
人間はこれまで何をしてきて、これからどこに向かうのか…。
未来への責任は、我々の手の中に握られています。
“生きてる” 事は生かされている事なんだ、
これから どう生きるか が大切だ、と
しみじみと感じました。
私にとって京都は、様々に人生を感じる所です。
(私の住まう静岡や関東では、長年にわたって有名な)
「そうだ 京都、いこう」というJRの広告は、
素晴らしいものが多いです。
季節折々の古都のたたずまいが、心に響いてきます。
日本人の心遣い、自然の美しさなどを見せて頂き、
この国に生まれて幸せだなぁと感じる事があります。
今回は、やっと時間が取れて、ゆっくり過ごす事が出来ました。
私の大好きな京都で、
多くの皆様とお目にかかれて幸せでした。
お一人お一人の事を思い出しながら帰路につきました。
今日も、生かしていただきまして、ありがとうございます。
お宅に泊めていただきました。
自宅を開放してペンション業もやっておられるのです。
昭和初期のお医者様のお宅で、当時の様式の
和洋折衷の素晴らしい味わいのお家でした。
暖かいおもてなしに感謝いたします。
(頭上は、吉田松陰、西郷隆盛などにも
影響を与えた藤田東湖先生の書)
こちらのご主人は、
体験会にご参加頂いた奥様のお話を詳しく聞くまでもなく
奥様の様子を見られると、まずは復調を喜ばれているようすでした。
とっておきの防腐剤無添加の素晴らしいワインなどを
楽しくいただきながら、和気あいあい、色々なお話をさせて頂きました。
真剣な話も色々と致しました。夜が更けてから、
さらにお互いの心が打ち解け、
難病に苦しまれる縁者の方に関するご相談などもありました。
話が前後しますが…、
今回の車座の会は、ご参加の先生方のところに通われる
不調者の方も、何人か参加されておられました。
辛い症状の方を前に、話し合いの場を先に持つのは
適切ではないと考え、施術体験会から始めさせて頂きました。
一番の辛い症状の方は、
もう2年も首の痛みで苦しんでおられて、
上を向くこともできず、横を向く時には
肩も一緒に動いてしまうという症状でした。
お聞きすると、頚椎椎間板ヘルニアが完治しない内に
事故あわれて、それからの症状だそうです。
泣き面に蜂とはこのことです。
お休みになる時も、さぞや難儀だろうと推察致しましたし、
「何故、自分だけが、このようになってしまったのか」と
運命を悲観しているようでもありました。
2年間も、そのような症状で過ごされておられたら、
いくら「明るく過ごすように」と言っても、
たいへん難しいものです。
私も腰椎椎間板ヘルニアで約10年悩んでいましたから、
症状は違えども、お気持ちは痛いほど判りました。
「イタイ、イタイ」と言っていて、症状に心を向けていても
自分の気持ちは晴れて来ないし、
そのうちに性格までも、嫌な自分になりそうで…
怖かった時期もあったと思います。
しかし、考えてみますと、世の中には、
もっともっと辛い状態で、人生と立ち向かっている人も、
ごまんとおられるのです。
様々な方に施術をさせて頂いていると、
痛みだけでなく、他人に言えない悩みや苦しみを、
私のような者にお話してくださいます。
いろいろな人生を観て思いますのは、
本当の苦しみと言うのは身体の苦しみより、
精神的な苦しみの方が、
はるかに辛いのではないかということです。
今回の京都車座の会では、
『思い方を変えるのが一番』
ということをお伝えしたいと思いまして、
最後に、ある例え話をさせていもらいました。
人生とは、思い方を変えて生きる事が、
何より大事だと思います。
翌日は京都の街をまわりました。
祇園も御所も良かったし、
下鴨神社の参道の緑も何ともいい気分でした。
偶然にお祭りをやっていました。
歴史の痕跡(こんせき)は、美しいく、優しいものばかりではなく、
新撰組の刃や、蛤御門の変の弾丸の跡などなど…、
京都を歩くと、他の街にも増して、人間の心の様々な陰陽が
幾重にも刻まれているところである事を直接感じました。
人間はこれまで何をしてきて、これからどこに向かうのか…。
未来への責任は、我々の手の中に握られています。
“生きてる” 事は生かされている事なんだ、
これから どう生きるか が大切だ、と
しみじみと感じました。
私にとって京都は、様々に人生を感じる所です。
(私の住まう静岡や関東では、長年にわたって有名な)
「そうだ 京都、いこう」というJRの広告は、
素晴らしいものが多いです。
季節折々の古都のたたずまいが、心に響いてきます。
日本人の心遣い、自然の美しさなどを見せて頂き、
この国に生まれて幸せだなぁと感じる事があります。
今回は、やっと時間が取れて、ゆっくり過ごす事が出来ました。
私の大好きな京都で、
多くの皆様とお目にかかれて幸せでした。
お一人お一人の事を思い出しながら帰路につきました。
今日も、生かしていただきまして、ありがとうございます。
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自己紹介
村松幸彦
HP:
性別:
男性
職業:
整体師・指導者
趣味:
水泳。それを発端に「人を育てる事」が生き甲斐
ビジョン:
整体で日本を変える!
普遍性に基づく この技術は、限られた者が、私(ワタクシ)するものではない! 一人でも多くの方々に、この素晴らしい技術と出会って頂けるよう、その機会を作りたい!
私は若い時に水泳選手をしておりました。その後、職業コーチとして人を育くみ、可能性を伸ばす事に従事してきました。しかし、激務により椎間板ヘルニアを患ってしまい、激痛に七転八倒。現役選手からは退いていましたが、現場でスポーツに関わる者としては致命傷でした。
実はその数年前、事故による不運で、父は実家を手放なしておりました。私は狭いアパート暮らしをしながら、暗澹とした気持を撥ね退けるように頑張り続け、やっとの思いで自分の人生を軌道に乗せつつあったのですが…。そんな矢先の凋落。「若くして、こんな病気になってしまうなんて…」と我が運命を悔やみながら、それまでの夢を断念せざるを得ませんでした。一年間程、一般外科に通院しましたが、病状は回復しませんでした。当時、私なりに、様々な責任がかかる一方で、一寸先は真っ暗闇という気持ちでした。
いよいよ手術をしなければいけないと迷っていたのですが、周囲の助言を聞いて療法を切り替えました。各種療術、鍼灸など東洋医学、カイロプラクティックなど「いい先生がいる」と聞いては、たとえ遠方や県外であっても、良い治療院を求めて転々としました。
治療を進めながら、私は「人生、こんなことで落ち込んでいてはダメだ。又、様々な自分の不運を他人のせいにしてはいけない」と、考えを転換。更に「身体と心は、ひとつのつながったものなのだ」という感覚を、体験的に持ちはじめました。最終的には、それまでは持ち得なかった 人生における様々な別の視点を与えてくれた“気づき”の為の機会として、自分の「病」にさえも感謝する事が出来る様になってゆきました。他者を恨むではなく、自分の気持に責任を持って絶対積極の道を選ばなければ、と考え、ささやかながらマイホームを建てるという自らへの挑戦を致しました。「人生、明るい方を見よう」と。
そんな末、徐々に体調を回復。
それに前後して、施術療法における 精神的な師 とお呼びするに相応しい方とも出会いがありました。今は亡き その恩師は、大変な力を持っていた方ですが「私の療法は自分一代限りのもの」と言われ、直接的な後継者を作られませんでした。しかし、ご縁あって、師より薫陶を受けることが出来たことは、何ものにも代え難い経験となりました。
そのようにして整体術を中心に様々な施術療法で体調を回復し、心持ちの大切さに気づいた喜びと感動が志に繋がり、後日、自らも整体術(当初は揉み系)を学び、自分の治療院を開院するにいたりました。
お陰さまで、私の治療院は最初からうまくゆき、四ヶ月目で、一ヶ月に百人以上の来院者が来られ、その後も安定して来院者は増える一方でした。
しかし途中、当時の施術法は限界にぶつかり、自分の身体も、施術結果も限界に…。プロとして思い悩んでいた頃、自然形体療法と出会い転向。師の下で研鑽を深め、独立後それを元に技を進化させ、多くの問題を解決してゆきました。
私の治療院は順調で、何ら問題はなかったのですが、胸中の志からすると、自分の治療院の成功だけでは満足出来なかったのです。
常々、私の得た療法を広めたい、多くの方々と、この技と心を分かち合いたいと思っておりました。またプロとして活躍していただく為には、治療院運営方法の伝授も大切な要素だと考えました。
心 思いて学ばざれば即ち暗し、学びて思わざるは即ち危うし。
かつて共に学んだ後輩をフォローする形で【日本回復整体学院】を設立。副学院長として、学院の運営以上に、主として施術の実技指導、及び治療院運営法指導の役割を担いました。
平成21年3月、当初の志を全うする意志を持って学院より独立。
累加の教え子達からは「従来なかなか食うに困る業界と言われていたが、この技術によって、人を癒し、成果を上げ、人並み以上の治療院をまかなう事が出来るようになった」と言われる事が多いのは幸いです。
これまでの時代、それで良かったのかもしれません。しかし、私は、身体不調や人生の軋轢がもたらす他者の「痛み」に関わる者として、教え子の皆さんには、技術だけではなく、人の「心」を鑑みることを忘れずにいて欲しいと望みます。治療の本質、そして生まれて来たことの意味の本質は、そこに有るのですから。「心」を忘れた治療は、換骨奪胎、仏作って魂入れず。
その一方で、太陽は誰のもとにも輝く。
このご縁が広がり、朗らかな各々の人生を生きて頂きたい。そしてその際、この太陽のような暖かさに気づかない方、不調者さま達には、その事を全身全霊をもって伝えて頂きたいと思います。治療というのはそういうものなのです。それがこの技を授かった者の使命だと思っています。
これまでの機会では、技術においても、心においても、まだまだ皆さんに、十全には伝えきっておりません。出来るだけ多くの方々に、この技と心を伝えたい。それを行ってゆく事が私の使命だと考えております。
整体で日本を変える!
思えば、かの
万世の為に太平を開かんと欲す、という言葉をもって、日本は、信じられぬ程に大きく変わり、その想いに違わぬ発展をしてまいりました。時代は、たえず変わるものです。人が求めるもの、時代の意識、物事の価値さえもが移り変わって往きます。苦難をしのいだあかつきに、ひとつの大業が成されると、その時点からでしか見えない視点が生じます。そして、大きな志とは、時代を超え、尚も貫かれるにたるものなのです。
「万世」とは、単に “現在、広く世にあまねく” のみならず、未来の世代はもちろんの事、過去までをもさし含む言葉ではないかと、私は察します。こころざし次第で、不思議な程に、過去の物事の意味でさえも変わってゆく。今という激動の時代、ご縁のある方々の安寧かつ希望あふれる未来を望むにあたり、初心を忘れず、意新たに。
各々に与えられた「時」「機会」「出会い」の意味を問い、それに感謝。
あいまみえぬ時代をも含めて、技や心の師、友、後進達と共に、この想いを分ち合いたい。
整体で日本を変える!
普遍性に基づく この技術は、限られた者が、私(ワタクシ)するものではない! 一人でも多くの方々に、この素晴らしい技術と出会って頂けるよう、その機会を作りたい!
私は若い時に水泳選手をしておりました。その後、職業コーチとして人を育くみ、可能性を伸ばす事に従事してきました。しかし、激務により椎間板ヘルニアを患ってしまい、激痛に七転八倒。現役選手からは退いていましたが、現場でスポーツに関わる者としては致命傷でした。
実はその数年前、事故による不運で、父は実家を手放なしておりました。私は狭いアパート暮らしをしながら、暗澹とした気持を撥ね退けるように頑張り続け、やっとの思いで自分の人生を軌道に乗せつつあったのですが…。そんな矢先の凋落。「若くして、こんな病気になってしまうなんて…」と我が運命を悔やみながら、それまでの夢を断念せざるを得ませんでした。一年間程、一般外科に通院しましたが、病状は回復しませんでした。当時、私なりに、様々な責任がかかる一方で、一寸先は真っ暗闇という気持ちでした。
いよいよ手術をしなければいけないと迷っていたのですが、周囲の助言を聞いて療法を切り替えました。各種療術、鍼灸など東洋医学、カイロプラクティックなど「いい先生がいる」と聞いては、たとえ遠方や県外であっても、良い治療院を求めて転々としました。
治療を進めながら、私は「人生、こんなことで落ち込んでいてはダメだ。又、様々な自分の不運を他人のせいにしてはいけない」と、考えを転換。更に「身体と心は、ひとつのつながったものなのだ」という感覚を、体験的に持ちはじめました。最終的には、それまでは持ち得なかった 人生における様々な別の視点を与えてくれた“気づき”の為の機会として、自分の「病」にさえも感謝する事が出来る様になってゆきました。他者を恨むではなく、自分の気持に責任を持って絶対積極の道を選ばなければ、と考え、ささやかながらマイホームを建てるという自らへの挑戦を致しました。「人生、明るい方を見よう」と。
そんな末、徐々に体調を回復。
それに前後して、施術療法における 精神的な師 とお呼びするに相応しい方とも出会いがありました。今は亡き その恩師は、大変な力を持っていた方ですが「私の療法は自分一代限りのもの」と言われ、直接的な後継者を作られませんでした。しかし、ご縁あって、師より薫陶を受けることが出来たことは、何ものにも代え難い経験となりました。
そのようにして整体術を中心に様々な施術療法で体調を回復し、心持ちの大切さに気づいた喜びと感動が志に繋がり、後日、自らも整体術(当初は揉み系)を学び、自分の治療院を開院するにいたりました。
お陰さまで、私の治療院は最初からうまくゆき、四ヶ月目で、一ヶ月に百人以上の来院者が来られ、その後も安定して来院者は増える一方でした。
しかし途中、当時の施術法は限界にぶつかり、自分の身体も、施術結果も限界に…。プロとして思い悩んでいた頃、自然形体療法と出会い転向。師の下で研鑽を深め、独立後それを元に技を進化させ、多くの問題を解決してゆきました。
私の治療院は順調で、何ら問題はなかったのですが、胸中の志からすると、自分の治療院の成功だけでは満足出来なかったのです。
常々、私の得た療法を広めたい、多くの方々と、この技と心を分かち合いたいと思っておりました。またプロとして活躍していただく為には、治療院運営方法の伝授も大切な要素だと考えました。
心 思いて学ばざれば即ち暗し、学びて思わざるは即ち危うし。
かつて共に学んだ後輩をフォローする形で【日本回復整体学院】を設立。副学院長として、学院の運営以上に、主として施術の実技指導、及び治療院運営法指導の役割を担いました。
平成21年3月、当初の志を全うする意志を持って学院より独立。
累加の教え子達からは「従来なかなか食うに困る業界と言われていたが、この技術によって、人を癒し、成果を上げ、人並み以上の治療院をまかなう事が出来るようになった」と言われる事が多いのは幸いです。
これまでの時代、それで良かったのかもしれません。しかし、私は、身体不調や人生の軋轢がもたらす他者の「痛み」に関わる者として、教え子の皆さんには、技術だけではなく、人の「心」を鑑みることを忘れずにいて欲しいと望みます。治療の本質、そして生まれて来たことの意味の本質は、そこに有るのですから。「心」を忘れた治療は、換骨奪胎、仏作って魂入れず。
その一方で、太陽は誰のもとにも輝く。
このご縁が広がり、朗らかな各々の人生を生きて頂きたい。そしてその際、この太陽のような暖かさに気づかない方、不調者さま達には、その事を全身全霊をもって伝えて頂きたいと思います。治療というのはそういうものなのです。それがこの技を授かった者の使命だと思っています。
これまでの機会では、技術においても、心においても、まだまだ皆さんに、十全には伝えきっておりません。出来るだけ多くの方々に、この技と心を伝えたい。それを行ってゆく事が私の使命だと考えております。
整体で日本を変える!
思えば、かの
万世の為に太平を開かんと欲す、という言葉をもって、日本は、信じられぬ程に大きく変わり、その想いに違わぬ発展をしてまいりました。時代は、たえず変わるものです。人が求めるもの、時代の意識、物事の価値さえもが移り変わって往きます。苦難をしのいだあかつきに、ひとつの大業が成されると、その時点からでしか見えない視点が生じます。そして、大きな志とは、時代を超え、尚も貫かれるにたるものなのです。
「万世」とは、単に “現在、広く世にあまねく” のみならず、未来の世代はもちろんの事、過去までをもさし含む言葉ではないかと、私は察します。こころざし次第で、不思議な程に、過去の物事の意味でさえも変わってゆく。今という激動の時代、ご縁のある方々の安寧かつ希望あふれる未来を望むにあたり、初心を忘れず、意新たに。
各々に与えられた「時」「機会」「出会い」の意味を問い、それに感謝。
あいまみえぬ時代をも含めて、技や心の師、友、後進達と共に、この想いを分ち合いたい。
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